「なぜ山に登るのか?」と人は問うた。
とかく人は「なぜ?」と問う。
常々思うのは、実際のところ原因や動機の追及というのはあまり意味をなさないのではないか、ということだ。
大切なのは、まず行動ありき、ではないかと。
原因だのトラウマだの深層心理だのというのを追求していくのはカウンセラーの仕事で、臨床の現場とかだと基本は行動療法だったり薬事治療だったりするのだ。それをわかってない臨床医がいたりするから始末に困る。
自己認識を深めるために自己に問いを発するモラトリアムはそれはそれで結構だけれど、人は行動していくことによってのみ世界とコミュニケーションが取れるわけで。
……何の話だ?
あぁ、山の話してたんだっけ。
ここ数年は山に登ってる最中に体をこわして、谷まで落ちて、怪我してるのにまた山に登るようなことをしていた。
ボロボロになってもまだ登るもんだから登れる高さも低くなってたりなんかして。
そして、
ある日他人に次のような趣旨の問いを投げかけられたのだ、
「そんなにぼろぼろになって、たくさんのものを失ってまで、なぜ山に登るのか?」と
それを聞かれたとき、なんだか酷く腹が立ったのを覚えている。
なんのことはない、偉そうなことを言っておきながら自分でも延々と問いかけていたのだ、「なぜ山に登るのか?」と。答えが出ないまま登っているのに、他人から無神経な顔で問われたら、「よけいなお世話だ」と不機嫌にもなろう。
あるいは、
「なぜ、登るのをやめてしまわないのか?」
最近はそんなことばかり問うてもいる。やめる理由、登らない人生。
どちらにしてもその答えは出ない。
だが、あえて言えば、問うて答えが得られぬからこそ、人は山に登るのでは無いだろうか。
他人に「なぜ山に登るのか?」と問われたら、
結局のところこう答えるしかないのである。
「その問いに答えられるものは、山には登らない」、と。